ナシール・アル・モルク・モスク   1905年建築 壁タイルの図柄から「ピンクモスク」・「ローズモスク」ともいわれる (右上)はその内部 こんな絨毯柄もあったような気がします 12/8/2008    シラーズ  イラン

六角の鐘楼はモンゴル様式 頭頂部にはファーティマの手 5指は5人のシーア派指導者を象徴


エラム宮殿と庭園  エラムとはペルシャ語で「楽園」の意味 19C ガージャール朝の宮殿   シラーズ  

ペルセポリス入口の大階段  上はクセルクセス門

馬で上がったので1段の高サは低く 1つの大きな石を5段に削り出している

イラン人の旅行者 キャンピングカーではなくテント泊      ペルセポリスへの沿道にて


ペルセポリス遺跡   山腹のアルタクセルクセス2世の王墓より西方向に宮殿を展望 右奥にアパダナ(謁見の間)の円柱  その手前の覆い屋根の部分は東階段部で  さらにてまえの百柱の間へと続く  BC6Cアケメネス朝ペルシャ時代 ダレイオス1世がラハマト山(慈悲の山)麓に祭儀の都として造営を始め  クセルクセス1世、アタルクセルクセス1世と3代約100年をかけて完成した宮殿群 BC330年アレキサンダーにより破壊される                                                     410000   13/8/2008   ペルセポリス   イラン

人面有翼獣身像 クセルクセス門    東側から撮る             獣身は牡牛で東側の一対は有翼で西(入口)側のものは無翼    クセルクセス門が左右対称をなすのは生贄を裂いて祀ったなごりであるとか   無翼は人間(俗界)を有翼は神(聖界)をあらわすとかの説がある  410001     13/8/2008

未完成の門   アレキサンダーの侵攻で未完になる 

ホーマー (トリフィン)像   柱頭飾り

頭は鷲で体はライオン

牡牛の柱頭・梁の飾り


百柱の間(玉座殿)の北門入口付近           右端は牡牛像

アパダナ(謁見の間)  後方南はタチャル

悪魔を倒す王の像 王の威光を象徴

百柱の間 (玉座殿)

アパダナ東階段のレリーフ   大王の近衛兵


(上) 牡牛を襲うライオンの像(複数有 ) アパダナ

ライオンが「夏」獅子座で 牡牛が「冬」牡牛座を表すという説とライオンが「王」で牡牛が「敵」を表すという説有り

タチャル(冬の宮殿の意味) 黒大理石が使われている  「鏡の間」ダレイオス1世の私的宮殿

朝貢の様子のレリーフ    23の属国の使者が描かれる 西はリビア  南はエチオピア  北はスキタイ  東はガンダーラに至る  糸杉は朝貢する各グループの区切りに使われている 人物は花の文様で区切られているが中央が太陽で  廻りの12の花弁は12の月の象徴という説がある


(上)王と従者のレリーフ    王の後ろには従者が右手で日傘をさしかけ 左手でハエ払いをしている  (右) 別の石碑ですが王の玉座の上にはゾロアスター教のシンボル(翼のある日輪)のレリーフが綺麗に残る ハディシュ    因みにゾロアスター教は善神アフラ・マズダと悪神アフリマンの二神論

(上)  トリピュロン(3門宮) 会議の間とも呼ばれる

基壇壁には手に槍を持ち頭にフェルトの帽子をかぶったペルシャの横向きの近衛兵士像 


ダレイオス3世謁見の浮き彫り       ペルセポリスの宝庫からの出土品  テヘラン考古学博物館にて  うしろに立つのは王子 謁見者との間には香炉が2本立つ テヘラン

ハムラビ法典が刻まれた石碑のレプリカの上部

 

 BC1776年頃の建立でバビロンのマルドゥク神殿に置かれていた   BC12C侵入してきたエラム人らにより  バビロンから奪われたものが1901年フランスの考古学者らによりイランのスサで発見された

現在はパリのルーブル美術館が所蔵 レプリカは日本でも何点かある

 アッカド語が使用され楔形文字で記されている 以後楔形文字の基本となった

 バビロニア王のハンムラビによって制定された法典で原型の残るものでは世界最古とされる

 神授宝典であることを示す序文と慣習法を成文化した282条の本文と  法典の規定に違反した者へ神の呪いと懲罰が与えられる旨を記した跋文からなる

ナグセラジャブ遺跡の周辺風景                     13/8/2008

ササン朝初期(3C)のレリーフ アルデシール1世がアフラーマズダ神(右)から戴冠を受けている ゾロアスター教の祭司であるササーンの孫アルデシールは  ペルシャの諸部族が定住していたファールス地方を根拠地としてパルティアを破り アケメネス朝の正統な後継者として226年(ササン朝)ペルシャ王に即位  ナグシェは「絵」の意味  ラジャブは昔この辺でチャイハネを営んでいた人の名前    ナグシェ・ラジャブ

シャブール1世と廷臣たち

シャブール1世(馬上左)の戴冠のレリーフ


ナグシェ・ロスタム アケメネス朝の4つの王墓が並んでいる 左からアルタクセルクセス1世、クセルクセス1世、ダレイオス1世、(見えてませんが右側の東面に)ダレイオス2世のものとされている 崖の壁面が十字形に彫りこまれ その上部には「玉座かつぎ」とアフラ・マズダーのレリーフが刻まれている ロスタムとはペルシャ神話で「英雄」の意味で使われ ナグシェ・ロスタムは英雄の絵ということになる

(上)ダレイオス2世の王墓  東面にある1基

 

(左) ゾロアスター教神殿跡

聖火を祀っていたとされる

アケメネス朝時代のものでアルタクセルクセスの墳墓

のむかいにある


3世紀にローマ帝国は混乱が続き軍人皇帝時代に入っていく

 シャブール1世は260年エデッサの戦でローマ軍に勝利し皇帝ヴァレリアヌスを捕虜とした この戦勝を記念してナグシェ・ロスタムなどファールス地方の5か所に 「ローマ皇帝がシャブール1世にひれ伏すレリーフ」を刻ませた    さらにフィリップス・アラブス帝はメソポタミアを放棄し 毎年の貢納金を支払うなどの不利な条件でシャブール1世と講和を結んだ       

     

(上)パサルガダエ宮殿 大広間跡

アケメネス朝最初の首都 キュロス大王(2世)のもとで建設が始まりダレイオス1世に引き継がれる

パサルガダエとは「ペルシャ人の本営」という意味

(右)ソロモンの牢獄 この建物には諸説有り  キュロス大王の息子カンピュセスの墓・ゾロアスター教の寺院・宝物館など「ソロモンの牢獄」とはイスラム時代になってつけられたようです  


キュロス(2世)大王の墓

ピラミッド型に石を積み上げている

かっては地元の人々に「ソロモンの母の墓」と呼ばれていた  キュロス大王の墳墓である確証はないが アレキサンダー大王がペルセポリスを破壊したときこの墓を訪れ 部下に中に入るよう命じたと記録した2世紀の歴史家アッリアノスの資料があるという

BC8c~BC7cにかけてメディア王国支配下のファールス地方にペルシャ人と称される民族がいた

この王家であるアケメネス家のキュロスがBC550年

メディア王国を破りアケメネス朝ペルシャ帝国を開き

リディア・エジプト・新バビロニア・メディアの四国分立

の時代に終止符を打ち  アケメネス朝が台頭していく  ペルセポリス、ナグシェラジャブ、ナグシェロスタム、パサルガダエはいずれもファールス地方に位置

チェヘル・ソトゥーン宮殿 17Cアッバース2世により建造された迎賓館 「40の柱」の意味だが内20本は水面上に(柱はスズカケの木)  当時は庭園からアリカプ宮殿につながる  14/8/2008 イスファハン  イラン

アーリーカプ宮殿 「壮大な門」を意味する   16C末~17Cに  1~2階はアッバース1世、 3~7階はアッバース2世の時代につくられた  バルコニー中央には池があり 18本の柱で屋根を支える 

イマーム・モスクとイマーム広場    17Cのサファビー朝時代「世界の半分」とその栄華が称賛されたイスファハン(軍隊のいる場所の意味)  そのシンボル的存在のイマーム・モスク と イマーム広場 (1979年の革命前は「シャー(王)の広場」と呼ばれた) イマームとは「イスラムの指導者」を意味する モスクのキブラ(メッカの方向)が広場の軸線と異なるため45度斜めになっている  14/8/2008 イスファハン イラン                

入口イーワン上部の装飾にはムカルナス(ストラクタイト)

イマームモスク  中庭から見るドームとミナレット

施紋彩釉タイルは15Cティムール朝の頃より始まる


シェイフ・ロトフォッラー・モスク   珍しい黄色のドームに覆われ ミナレットや中庭はなく イマーム・モスク同様広場の軸線に対し45度になる 17C王族女性のためにつくられ「女性のモスク」と呼ばれている 

ジャーメ・モスク(金曜モスク)            (上)南のイーワン

717年に建設されたイスファハンで最も古いモスク

長い時代に渡りイランのさまざまな建築様式が体現されている 初期の建設は煉瓦と木材を使用した古典的なモスクであった 特徴的なのはスンニ派のセルジュク朝時代に南北のドームと中庭の4つのイーワーンが建設されたことです                       15/8/2008  イスファハン


ジャーメ・モスク  ミフラブの天井

中世のモスクの雰囲気がなんともいい!

(左)まるで木彫りのように精緻にできたミフラブは「世界一」美しいといわれる 日本人の美意識にもつうじるものがありそうだ     イラン・イラク戦争のときにはこのモスクにもミサイルが着弾した

 


ヴァーンク教会    17C サファビー朝のアッバース1世がオスマントルコに迫害されていたアルメリア人をこの地区にすまわせ交易を認めた  

ドームもミフラブもありモスク風ですが最後の晩餐などのキリスト教のフレスコ画がたくさん描かれています


ザーヤンデ川とハージュ橋     サファビー朝時代 アバース2世により1655年完成 上下2層構造で上層には王の「あずまや」がある 今なお橋の役目以外に水理調節機能も有し また憩の場を提供している   デートスポットとしてもメジャーである この時期水位は低い      410002   15/8/2008 イスファハン  

ハージュ橋 の下

日陰で水冷となれば夏は最高の納涼スポットとなる オージーアーチでペルシャらしくデザインされた空間は橋脚の「隙間」とは思えない                    イスファン    410003        15/8/2008

スィー・オ・セ橋の上

スィー・オ・セ橋 (33アーチ橋) 1602年完成  ハージュ橋の西に架かりイスファンの大通りを南北に結ぶ  

シャフレスターン橋    イスファハン最古の橋  ハージュ橋下流3km  12C建設  現在のものはセルジュク期の物 

沈黙の塔 女性用  男性の塔から見る (K氏提供)     禿山の上に円筒状の塔が立つ 50年程

前まで鳥葬が行われていたと思うとよけいに異様な感じがする ゾロアスター教は自然界の五元素神(真気・風・水・土・火)を崇めるので土葬や火葬を否定した  16/8/2008     ヤスド

ヤスドの集落遺跡と北後方は新市街

低い方の女性用の塔から男性用を見る

遺族は鳥葬が終わるのを麓の小屋で7日から10日待っていたそうだ

麓の宿舎集落跡より  女性用沈黙の塔

女性用塔の内部     塔は日干しレンガでできていて地面には石が敷き詰められ中央部には穴があいている 鳥葬のあとに残った遺体を投げ入れたらしい


沈黙の塔 男性用

拝火教神殿 5世紀後半から燃え続ける聖火


バードギール    伝統的建築の風採り塔 塔の中は縦に仕切られていて 取り込んだ風が地下貯水槽を通り 気化熱で冷やされて部屋に入る  410004        16/8/2008     ヤスド   イラン

ヤスドのジャーメ・モスク    ゾロアスター教寺院跡に11Cブワイフ朝により建てられ 以後数度改築される イランでは最も高い52mのミナレットを持つ                                16/8/2008     ヤスド

バードギールのある街角

ハンマーメ・ハーン (ハーンの浴場)      今はチャイハナ


チャフマーグ広場の複合施設 モスクではありません 右の柵の中はナフルという祭りの山車

ヤスドの町のこどもたち (K氏提供)


アレキサンダーの牢獄 この地下の井戸の底の

牢獄に囚人を閉じ込めたと言われるが アレキサンダーがこの地に来た歴史的記録はない

カナートの水を利用した地下の井戸 この水は(左)写真のバードギールにも利用されている


12イマームの霊廟  もとはゾロアスター神殿らしい

 

左の写真の内部 イスラム神秘主義者の霊廟

   ヤスド      イラン