今回はタジキスタンへの旅になります  成田からデイフライトでタシケントへ向かう  この景色を見るなら右側の窓際席がよかった様です 位置は次のエアーナヴィゲーションの通りですが ウルムチあたりから天山山脈に沿って西に進み  新疆ウイグル自治区・カザフスタン・キルギスタンの3つの国の境界点を真下に見ながら  タシケント方向に高度を下げていくところです 氷河を抱くハンテングリ山(7010m) ・ポベーク山(7439m)の峰々も入った贅沢な眺めです 12/7/2019

この画面で見ると新疆の「疆」の字の旁部は  上からアルタイ山脈・ジュンガル盆地・天山山脈・タクラマカン砂漠・崑崙山脈を表しているのがよくわかります     ウズベキスタン航空機内   12/7/2019

ウズベキスタンのタシケントから  「フェルガナ盆地」をタジキスタンとの国境の町オイベクに向かう  郊外の農地では小麦や綿花が栽培されていて  今はちょうど小麦の収穫期です     13/7/2019

これはトウモロコシ畑   農地にはシルダリア川からの灌漑用水路が引かれている     13/7/2019

国境を越えてタジキスタンに入国 農地風景は同じだが  ヒマワリも栽培されている

集落は水路のある山際に散在 タジキスタン      13/7/2019


ホジャド の市街を水量豊かに流れるシルダリア川      ホジャドはタジク語で「良い人の集まる場所」の意味                     ホジャンド    23/7/2019

シルダリア河岸では遊泳もできる 反対側は宿泊したホジャドのパーラメントパレスホテル   13/7/2019

     旧シャイフムスリヒディンモスク    19C 

モスクの向かいはパンシャンベ広場をはさんでパンシャンベバザール        パンシャンベとはタジク語で「木曜日」という意味 昔から木曜日にここで市が開かれてきたからこの名がつく    因みに首都のドゥシャンベは月曜日の意味

1986年完成の新シャイフムスリヒディンモスク

モスク天井の修復装飾作業中 ラピスラズリの色が鮮やか    上は暑いでしょうね 


新シャイフムスリディヒン モスク内から見る広場とモスク                                      ホジャンド タジキスタン 

パンシャンベバザール       中央アジア最大規模

つまずきそうな通路  足元も注意 !

フルーツの種類も豊富


ここのナンは ヴィニール・ ラッピングされていて衛生的  ただし2枚一組   13/7/2019

アルボブ文化宮殿のファサード 右はエモマリ・ラフモン大統領  左はイスマイル・サーマニ2世 (サーマン朝のアミール) の像が飾られる   サーマン朝は中央アジアでは最古のペルシャ系の王朝で  ペルシャ系の多く住むタジキスタンでは英雄視され  タジキスタンの通貨の単位「ソモニ」に使われている   ソヴィエト時代 サンクトペテルブルグ冬の宮殿を模して1957年建立される     ホジャンド   13/7/2019  

この宮殿はタジキスタン第2の都市 ホジャンドの町を見下ろす 丘の上に建てられている

このホールで初めての国会が開かれたそうだ

シルダリア川は  地勢学的に南のアムダリア川と中央アジアを3つに区切る   アムダリア川の南はペルシャの農耕民族地帯、両大河の間はペルシャ系のソグド人のオアシス都市地帯、シルダリア川の北はスキタイの遊牧民の地帯と位置づける一時代を形成した 遊牧民が移動したユーラシア北部の草原地帯の交通路は「草原の道」とも言われ 交易路としても機能した   砂漠と草原の乾燥地帯にはオアシス都市が発生して ペルシャ帝国のころからイラン系の人々が 定着し始める  彼らは「ソグド人」と呼ばれ多くのオアシス都市国家を建設 この地域はソグディアナ (トランス・オクシアナ)と呼ばれた   周辺地域との隊商交易も広がり  後にはシルクロードと呼ばれるようになった  

ホジャンド  タジキスタン    13/7/2019

ソグド地域歴史博物館  (ティムール・マリック要塞跡) BC3C  アレキサンダーが 創築

入口に立つ  13C モンゴル軍と戦った  勇将 ティムール・マリック (ホラズムシャー朝 ホジャンドの総督) の像


アレキサンダー大王の生涯を描いた大理石のモザイク画   暴れ馬(愛馬ブケファラス)を乗りこなす大王

床モザイクは アレキサンダー大王最盛期の版図

ミエザ学園でアリストテレスから教えを受ける


大王と ソグド人の王スピタメネスの戦い

大王はソグド人の王の娘ロクサネと結婚する


要塞跡(今のものは7~8Cのものだが  モンゴル帝国に破壊されたものを一部復元)         

 【歴史】ペルシャのキュロス大王はソグディアナを  支配した後 シルダリア川以北のスキタイと対峙して ここに最果ての要塞 (キロポリ・キレスハタ) を置いたのが ホジャンドの町の始まりとされる  また アケメネス朝ペルシャを破ったアレキサンダーも ここまで侵攻してここに最果ての要塞 (アレキサンドリア・エスハータ)を築いたとされる      

タジキスタンの英雄6人の胸像がシルダリア川を見下ろすところに並んでいる 

その内の1人(右から2人目)は BC6Cに アケメネス朝のキュロス大王を打ち負かした遊牧民のトミュリス女王です      トミュリスは カスピ海東岸域に勢力を有したマッサゲタイ族の女王 (ヘロドトス記述)   

分離されて残された レーニン像 

放置物なのか設置物なのかよくわからない  アートなら評価したい


早朝のホテルのフロント     今日も暑いが がんばっていきましょう!  14/7/2019

シルダリア川に面したホテルのバルコニーからの眺め         シルダリアは「水の豊かな川」の意味

川辺で久しぶりに見た糸トンボ

タジキスタンの国民の多くが アイデンティテーとして称えるイスマイール・サーマニーの像


ここには水田が広がる ホジャンドから南西ヘ78kmの古都 イスタラフシャン (ウラテッパ)に向かう

イスタラフシャンは トルキスタン山脈の北麓にあって  歴史が2500年以上ある古都   アケメネス朝時代の最大の版図では北東端のクロポリスの位置に該当する イスタラフシャン とはアレキサンダーが妃に言った「ロクサネとどまれ」のことばに因むそうです 

ムグ・テパのムグとはゾロアスター教の聖職者の意味

ムグ・テパ     町を見下ろす丘の上にある要塞 建都2500年祭にあたり 16世紀の砦をイメージして再建された BC6Cにキュロス大王が最初にこの地に砦を築いて その後アレキサンダー大王や

AD1・2Cにはクシャン朝、   ササン朝期はソグド人の砦、  7~8Cにはアラブ人と続くようです  

 ムグ・テパ    再建前の写真

内部展示ギャラリー  左の絵はルスタンブック王?

                ムグ・テパ   イスタラフシャン   14/7/2019 


珍しい木組みですね

一部に17Cの古民家が残る街並み

上塗り壁が剝がれていて  柱間に日干しレンガをいれているのがよくわかる

構造的にはレンガ積みを耐力壁にしている

 土塗り壁にはしっかりスサが入っている

隅柱からの横架材の構造がよくわからない 梁・桁方向どちらにも小口断面がでているので  中でどう交差しているのでしょうか もしかしたら元々は2階建てであったかもしれません?     

             イスタラフシャン


近所の子供たちの歓迎はうれしい お姉ちゃんがリーダーのようだ

クックグンバース・メドレセ     15Cウルグベク天文台のウルグベクの息子の建築 クックは「青い」グンバースは「美しい」という意味 最近までメドレセが使われたが 今はモスクのみ

マヨルカとモザイクタイルで装飾されたモスクの外壁     メドレセ部は質素な単色のタイル

今はモスクとして使われる

ピンクカラーのムカルナスの装飾は珍しい                                               


中世さながらの工房が軒を連ねる鍛冶屋街   イスタラフシャンはホジャンドやサマルカンドを結ぶ交易路にあり 武具や馬具を修理する必要性から鍛冶屋街ができた   イスタラフシャン  

ハンドメイドのナイフばかり グリップの材料は遊牧民から容易に手に入る 

バザールの入り口  ラフモン大統領の肖像画は至る所に掲げるられている イスタラフシャン

年配者は民族帽  若い人は野球帽                                            イスタラフシャンのバザール


バザールの中は活気あふれる バナナは輸入品

買い物の会話も進む

中央アジアでよく見る木製ロッキング・クレイドル  


イスタラフシャンからドゥシャンベへと南下 トルキスタン山脈の峠に向かって次第に高度を上げていく

群生するレッドポピー      シャフリスタン峠 中腹

谷あいには遊牧中のヤギの群れ


シャフリスタン・トンネル     

2012年中国の借款で完成 全長.5km   標高約2400m         トンネルのできる前は3378mのシャフリスタン峠を越えた

【経済】タジキスタンは1991年ソヴィエト連邦から独立後1997年まで内戦が長期に渡渡り 国内インフラは壊滅状態であった  しかし水資源やレアアメタル・金銀 (世界8位の産金国) などの鉱物資源に恵まれていて  国境を接する中国の一帯一路戦略に便乗して 中国資本の受入れが際立ち  2016年には11.6億ドルに達し2国間債務の9割を占めるに至る  某リサーチはタジキスタンを 返済困難に陥る8か国の1つに挙げている  現に最近ドゥシャンベに発電所を造った中国企業が建設費を回収するまで 金鉱山の採掘権益を取得したそうです  タジキスタン    14/7/2019


トンネルを出てもなお延々と続く急峻なV字谷を下っていく

上部は頂上礫岩  その下はマール層 ・鉄分を含む緑泥石層のようです   

トルキスタン山脈とその南側に平行してファン山脈が並び  その間のザラフシャン渓谷をザラフシャン川が

西に流れる ザラフシャンはペルシャ語で「黄金の水しぶき」の意味 昔から砂金の採れる証

 ・

アイニーの村をバスで通過する       タジキスタン 最古のミナレットが大切に保護されている 

橋は落ちているが  左の石積は最近まで使っていた住居跡 遺跡ではありません


5509

ここには レジャーカーより 力強い 中国製の産業車両が似合いそうだ

木が生えてないトルキスタンの荒々しい山並み

ファン山脈のイスティカトンネルを南に出ると  旧道アンザーブ峠(3372m)からの合流点に出る 南側には ヒサール山脈が立ちはだかる     この奥地には1000年前に失われたソグド語直系の言語とされる  ヤグノブ語を話す ヤグノブ人が住む地域があり  彼らは少数民族で ほとんど自給自足の生活を送っている   ヤグノブとは「氷の谷」の意味  正倉院の収蔵物の中に 白檀の香木があり  それには「二分の一」を示すソグド文字が  焼印されていた     【参考】テレビ番組   NHK シルクロード 謎の民「大峡谷に生ける」  

ヒサール山脈   180度の展望   標高約3300m         左が上流                                                                     

蜜蜂のトレーラーハウス 一般的には蜜蜂の移動距離は2km ですが  花が少ないと?   

ヒサール山脈          14/7/2019


シオマ川(上)とバルゾ川(右側の濁流)の合流点 合流して左(南)に下る    ヴァルゾブ渓谷

 ヒルトンホテル のフロント       ドゥシャンベ到着  3連泊は助かる             14/7/2019                    

途中渡ったヴァフシ川 

約100km下流でバンジ川と合流してアムダリア川となる

途中の綿花畑の風景  

アジナテパ遺跡 入口


伽藍配置は南北に分かれ各 サイズ約50m×50m 北側の塔院の上から 南側の僧院方向を見る

アジナ・テパ遺跡     日本語の説明パネル    修復に日本のユネスコ基金が一役買っているようです

タジキスタンに残る数少ない 仏教遺跡の一つ クシャン朝期にはこの地にも仏教が伝わったと思われるが  7~8Cにはアラブのイスラム勢力(ウマイヤ朝)が  タジキスタンの西部まで版図を拡大し  ソグドもアラブ文化とイスラム教を受け入れた    アジナとは忌み嫌う、テパは丘という意味 後の時代ここから度々仏教の遺物が発見され  イスラム教徒の地元民に忌み嫌われて この地名ガつく    アジナ・テパは7~8Cの仏教遺跡で  ここで発見された全長約13mの涅槃仏は 中央アジア最大級の仏像で  ドゥシャンベの国立タジキスタン古代遺産博物館に展示されているが  出土品の多くは サンクトペテルブルグのエルミタ-ジュ美術館に保管されている           15/7/2019

左下が涅槃仏の発掘された場所

僧院の中庭あたり


涅槃仏  発掘時の様子 (博物館内の写真) 1967年

集まってきた遺跡の近所の子供たち     みんな Tシャツ がかわいい

昼食のレストラン 入口のオブジェ

壁には伝統の「ブツカシ競技」の今風の絵


ヒサール要塞  ドゥシャンベ西20km   古代からの要塞で  16Cブハラ・ハン国時代のものが修復された 

ロシア革命時 ブハラ・ハン国最後のアミールが ドゥシャンベに逃げ込み  その後カブールへ亡命 1922年

ドゥシャンベは赤軍の手に落ちる ソ連時代に綿花や絹の生産地に変えられ人口も急増した

要塞ではあるが領主の宮殿でもあることがわかる  1894年撮影      展示資料

手前は「レギスタン広場」とある 15Cのサマルカンドがご本家なのですね 1894年撮影


16Cのモスクとメドレセ      素朴なドーム横に宮殿が少し頭を出している     ヒサール     15/7/2019

伝統織物や民族衣装の展示

キャラヴァンサライ跡 から見上げる要塞


砦内部には 復元されたバザール(土産物屋)が並ぶ      地元の人気の観光地でもある

砦の頂上からの眺め ヒサールの町や周辺の農耕地が一望できる ヒサール 15/7/2019

ハジヤコブ モスク     ドゥシャンベのメインモスク   スンニ派の新しいモスクだが  金曜日には1万人もの礼拝者が訪れるという ここのイマーム (イスラム教の指導者) は 既に2回メッカへのハッジを果たしていて きれいな英語で  コーランを取り出して 熱心に説明をしてくれた      ドゥシャンベ  16/7/2019

青空にに外壁のタイルが映える

明るく繊細な天井装飾


イスマイール・サーマニ像 右手には7つのシトラ(星)を掲げる  国賓を迎えるため儀仗兵が待機中です

  【歴史】サーマン朝は9Cアッバース朝より独立してできた 中央アジアでは最古の ペルシャ系イスラム王朝   ブハラ ・ サマルカンドを中心に中央アジアを領有した  またこの時期に東西トルキスタン地域においてイスラム化が進行    サーマン朝は 10C チュルク系のカラハン朝に滅ぼされる   カラハン朝のサマルカンドの政権は  セルジュク(チュルク系)より独立してできたマムルーク兵の王朝  ホラズム王国により1212年滅びる 

 【グラーム : 軍人奴隷】グラームはアラビア語でマムルークとも このサーマン朝期 戦争捕虜などの形で 北方から連行されたチュルク系遊牧民は  ソグドの大きなオアシス都市の奴隷市場で売買された 購入された奴隷は5年間訓練を受け 西アジア全域に供給され  イスラム世界の軍事力がグラーム中心となる端緒となる   アムダリア川の要所にはグラームの関所があったという   軍事訓練を受けたグラームの所有は支配者層の力をより強くし  人口の大部分の被支配者住民との 関係はより隔たっていく サーマン朝期のグラーム養成システムは  13Cのエジプトで成立したマムルーク朝の制度や  オスマン帝国の宮廷奴隷制度(イェニチェリ)の起源になったとされる 今までグラームに関した質問を現地のガイドなどにして見たが あまり詳しくは説明してくれない  もしかしたら恥部となる奴隷売買の話は 民族の問題も含めて こちらではタブーなのではと思い始めてい る ・・・・・                                                                                                   ドゥシャンベ 16/7/2019

タジキスタン の国旗の色はソ連時代と同じ 1992年制定 赤は統一 ・緑は自然 ・白は綿花を表す   7つ星の紋章    国花・国鳥は特にないというが この黄金色のファルコンは?

2013年オープンの国立博物館  タジキスタンの歴史・自然・文化の広範囲にわたるが  パネルやジオラマ展示が主 本物のほとんどはエルミタージュ美術館や大英博物館に    16/7/2019


ルダーキの像            9~10Cのサーマン朝期に活躍    ペルシャ詩の父  タジク語の普及に貢献した      

 国立タジキスタン古代遺産博物館  ドゥシャンベ   

BC3500年頃   サラズム遺跡出土 金製品やビーズで飾られ  サラズムの女王と呼ばれる 遺骨 

ライオン像 塑像             16/7/2019

5~8C  天蓋下の宴の様子  左端はソグドの王


右端は横縞の服を着たペンジケントの騎馬兵

中央の馬の足元に倒れているのは敵兵

国立タジキスタン古代遺産博物館 ドゥシャンベ

BC4C  ライオンの像が刻まれる  アキナケス剣の象牙製鞘  小品ながら立ったライオンの表現は アケメネス期の雰囲気が漂う  オクサス神殿ヨリ出土


BC3~BC2C グレコ・バクトリア時代 ギルシャ風人物像 と  (左下) 彩色された バクトリア人の頭像

(下)涅槃仏の頭部  塑像

肘枕でなく楔形の敷き枕で ほほに手をそえる姿は 安らかさをかもしている  

ソグドの王 ブロンズ像 頭には三つ葉の王冠と鳥    ゾロアスター教では不死の植物とされるハーウマの三つ葉文様であるらしい


アジナテパ出土の涅槃仏  7~8C       長さ約13m    短縮法による撮影しかありません 

ペンジケント 出土  壁画  7~8C   左端はハープを奏でるクルド人の女性 中央・右は 兵士の戦い   

宴の壁画 左端にソグドの王

仏教徒の壁画  蓮の花は仏教徒のアトリビュート

さすがは首都のバザール エスカレーターもあり 一見近代的ですガ  アトリウムの器だけ立派という気もします 商品表示・レジ決済・カードポイントなどは  まだスーパーではなく 対面販売のバザール

バザールの外観 駐車場もこれからは 不足するでしょう

バザール3Fにあった理髪店 マスターも若い


新市街にあった ショーレストラン

民族衣装で歌謡ショー 


"センター"の踊り子

ファン山脈の最高峰チムダルガ峰 5489m も近い   今日はドゥシャンベからアイニー・ペンジケントを経由してウズベキスタンのサマルカンドまで  国境越えを含めて 遺跡を巡りながら のバス大移動 17/7/2019 

  次第に高度を下げる崖沿いの道       アイニーから西に方向を変える


ザラフシャン川南岸の農耕地               ペンジケント郊外

ザラフシャン川とトルキスタン山脈       ザラフシャン川はパミール高原 (タジク語で世界の屋根) を水源として西へ約300kmのペンジケントを通り  ウズベキスタンのサマルカンド・ブハラに達し  カラクム砂漠で姿を消す

この辺は盆地部なので川幅も広く ゆったりと流れる

ここで大きく蛇行するザラフシャン川       今年は水量が多いらしい                  17/7/2019

ペンジケント遺跡にある小博物館 壁画はレプリカで   柱・梁は移築されてきたもの

北側はザラフシャン川と崖  他3方は城壁で守られていた

城壁と隅櫓のプロファイル


ペンジケント遺跡         5~8Cのソグド人が住んでいた都市遺跡 【歴史】226年 ササン朝が興り242年クシャン朝(大月氏国)を滅ぼした結果  ソグド商人は 中国交易を押さえていたインド商人にとってかわり  同時に西方へはササン朝は パルティア国も滅ぼし ローマ帝国勢力を押し返した ( 260年エデッサの戦 )  結果  ソグド商人はシルクロードの恩恵に一番預かることになる しかし 722年にアラブ人が侵攻して来て 住民はこの台地の町を放棄して 再びもどることはなかった為   ソグドの遺跡のなかでも比較的 原形を留めた状態で発掘されていることから  「中央アジアのポンペイ」とも言われている  

【文字】ソグド語はペルシャ系の言語ですが アケメネス朝時代にアラム文字での表記が始まり  ソグド人の活動とともに中央 アジアの交易言語としてひろがる     本来右から左への横書きであったが 6C には縦書きに変化する  のちにこれが ウイグル人に さらには  モンゴル人へと影響を与えていった 

遺跡の丘の北端から   ペンジケントの町を一望できる    後方は トルキスタン山脈とザラフシャン川       

 右のゾロアスター教祭壇のスケッチ     どう使いわけたのでしょうか ?  博物館内  ペンジケント 17/7/2019

町のメインストリート沿いには 日干しレンガと木材で造られた2階建ての住居や店が並び  ゾロアスター教や仏教・ヒンドゥーの寺院もあった


西側に谷を挟んで城塞の跡 城と宮殿があり 市街地に繋がる橋がかけられていた

沿道に  ソグド風の壁画   ペンジケント 

 ルダーキ記念歴史郷土博物館   ペンジケント出身の 詩人ルダーキに因んで造られた  

BC3000~BC2000年    サラズム遺跡 発見のきっかけとなった青銅の斧 農作業中見つかる    ルダーキ… 博物館


中央の円形は拝火壇      サラズム遺跡は  タジキスタン北西部の古代都市で BC4000~BC3000頃(新石器時代~青銅器時代に渡る)までの中央アジアに人々が定住していたことを示している サラズムとは「地の始まるところ」を意味する 遊牧民の牧畜に適した山岳地帯と灌漑農耕に適した広大な流域に囲まれ   交易や文化交流も盛んに行われた 推定都市人口は3000位  タジキスタンで最初の世界遺産となる    サラズム      17/7/2019

サラズム遺跡「サラズムの王女」発見場所  表示

   17/7/2019       

発掘作業は今も続く


サラズム遺跡

サラズム遺跡                                    タジキスタン



アフラシャブの丘  【歴史】サマルカンドはBC10C ペルシャ系民族のオアシス都市として発展   BC4Cにアレクサンドロス3世の遠征軍と戦ったソグド人の都市マラカンダとして歴史に残る  後漢書では康国と記される   ソグディアナ(トランスオクシアナ)は都市国家の連合体であったが   8Cにサマルカンド王が「ソグドの王」を名乗っている 712年にウマイヤ朝アラブ軍に征服されイスラム化が始まる イスラム時代を通じてブハラとともにソグディアナの中心都市として発展 751年タラス川の戦いでアッバース朝が唐に勝利し  このとき製紙技術が伝わり イスラム世界で最初に製紙工場が営まれた    9Cにはサーマン朝の支配を受ける 11Cにカラハン朝に征服されてからチュルク化も始まる 1210年にはホラズム王国の支配下になりサマルカンドは首都となった  十字軍戦争が始まりシリアルートが閉鎖状態になり  インド・黒海ルートを占有したホラズム王国のもとで繁栄を極める   1218年の「オトラル事件」がきっかけで  モンゴル軍の大西征が始まり  ホラズムの諸都市は 虐殺・破壊され「 アフシャラブの丘」が中心部であったサマルカンドも壊滅する   モンゴル帝国の西南域をティムール帝国が継承し 14C末~15Cにかけてはティムール朝の首都として繁栄するが このアフシャラブ丘が再建されることはなかった       サマルカンド ウズベキスタン                 【ソグド人の消滅】8C 唐の時代最大の内乱「安史の乱」で安禄山の野望が破れ ソグド人弾圧の嵐が吹き荒れ 中国の表舞台から姿を消す  この時期  中央アジアはイスラム勢力の攻撃に ソグドのオアシス都市は次々と陥落していく  人種的にもチュルク化が進み  都市のソグドは中国社会や周辺の遊牧民の社会に隠れるように溶け込んでいったと思われる     1 0C前後を最後に歴史から足跡が消える

ラクダキャラバンのモニュメント     サマルカンド    18/7/2019

アフラシャブ考古学博物館


  全体想像図  婚礼の行列説   ワルフマン王がイッシュヒッドの結婚式に赴く様子 

7C  (左下部分)   別説 白い像に乗るのは王の妃 次に馬に乗る3人の護衛の女官  次に駱駝に乗る神官2人と生贄の鵞鳥4羽 この説では ゾロアスター教の新年の霊廟参り

7C  ソグドのワルフマン王に朝貢にくる多数の民族 と 王の謁見の様子 棒状のものは武器

(下部 中央左)

戦いの場面 全体図  

戦いの場面(中央部分)          アフシャラブ考古学博物館

アフシャラブの丘ジオラマ   右下坂道シャーヒジンダ廟

13Cに破壊された都市遺跡  サマルカンド


農耕と牧畜 ここだけ見ればソグドの昔と同じ でも パワーショベルの爪跡は現代です

昔と変わらぬコウノトリの営巣     でも木ではなくコンクリートヒュームの電柱

ノスタルジックな鉄道   ウズベキでは既に高速鉄道も走る  タシケントで今回のソグドの旅も終点です

                               18/7/2019