ダナキルツアーの拠点になるメケレの街   エチオピア北部のティグレ州の州都  人口約30万人  エチオピアは83の種族で構成される多民族国家 ティグレ族はティグレ州を中心にエリトリアやスーダンにも存在する 国境策定以前メケレはエリトリアに空爆されたこともある 1897年からの皇帝による帝政から 1974年の軍事クーデターと政権が変わった後   ティグレ民族解放戦線が蜂起して現在の国家をつくった後  長年政権への影響力を持つ メケレの発展もこれと無関係ではない

宿泊したMEKELE PLANET HOTEL  周辺は建設ラッシュで小径木の足場が 網の如く曲がりながら架かっている ノーフォークパインが植わる中央分離帯の遠くにはティグレ解放戦線の殉教者慰霊塔が見える   さあダナキル砂漠 (広さ640km×240km) へ出発! メケレ  ティグレ州  エチオピア 19/11/2017

山間の小さな平地部はテフの畑が多い テフはイネ科のエチオピアの主要穀物 どこかアジア的にも見える風景    「テフ」の語源はアムハラ語の「見失う」に由来し その種子は床に落とせば見失うほど小さい(ゴマの1/10) 乾季の11月はちょうど収穫期にあたる

ランドクルーザーは標高を2000mのメケレから ベンアレ村に向かってしだいに下げていく (右) 時折見かけた道路を移動する遊牧のヤギの群れ  19/11/2017

Juniperus procera (African pencil ceder) 沿道の大きくなったジュニパー

アメリカでは松なのだがここでは杉

Acaia  sieberiana   トゲガいっぱいのアカシア 因みに十戒の石板を入れたアーク (聖櫃) はアカシアの木製が定説


ベンアレ村のはずれでもう1台の同行する車が合流 これにはダナキルでのキャンプ用機材や食料が積まれ  コックやサポートのスタッフも乗り込む                      ベンアレ   ティグレ州

ベンアレ村    ダロール地区の訪問許可手続きのため立寄る  アサレ湖からメケレへの塩の中継交易で栄えてきた村 過ってアサレ湖からの塩のキャラヴァンはメケレまでの170km(高低差2100m)を約1週間をかけて運んだが 今はここベンアレまでの57kmまでになった   丘の上にはティグレ族のキリスト教会があり 手前下のワジの縁にはアファール族のモスクが建っている       19/11/2017

ワジの対岸には 運ばれてきた塩のブロック

ムスリムの子供? 


僕らはベンアレ村の「竹馬の友」です!

村の カフェ   ワジの河川敷の簡易小屋で店を開いている 炒ったコーヒーの香りガ芳しい 

”営業中”で”子育て中”の奮闘するお母さん

今日は日曜日で子供の学校は休み


アフメッド・エラに到着 ここは北のダロール  南のエルタ・アレへの拠点 軍も駐留する 一際高い通信塔がランドマーク 今夜はここでキャンプ

アファール族の村  ここからカラシニコフAK47の自動小銃を持つアファール警察が ツアーに警護のため同行する  頼めば銃を持たせてくれる


アファール人はダナキル人とも呼ばれる 遊牧や塩の採掘で生計をたてる 1995年エチオピア連邦民主共和国ができたとき エチオピアの州が民族ごとに再編され  アファール州が与えられる アファール人は周辺国も合わせて約250万人  殆どがスンニ派のイスラム教徒 内エチオピアには約150万人

ダロールの岩塩鉱山


3時頃の運び出しまで出番がなく  脚を縛られ「正座」して待機する「苦しい」ラクダ達

岩塩の層を割ってこじ開ける作業

割った岩塩を持ち上げる作業  みんなで力をあわせて 梃子の原理で「エーンヤ ・コーラ」

30×40㎝(約6.5㎏)の板に整形する作業

ラクダに載せる重さ200kg(30枚分)に束ねる


現場のランチタイム     しかしここには日陰は全くない ほとんど無帽 熱中症は大丈夫?

ダロール火山へのトレール    「ダロル」はアファル人のことばで「溶解」を意味する   1927年の水蒸気爆発でできたクレーター(直径約1450m)は  濃縮された硫酸が溜まり・結晶の塔・尾根等に形を変えている 緑色をした強酸性の水・硫黄・酸化鉄・カリウム・塩などの極彩色の成分が この世のものと思えない毒々しい景観をこしらえている 火口は海抜 マイナス45~50mと陸地火山としては世界で最も低い  ダロール   ダナキル砂漠  アファール盆地  エチオピア    19/11/2017

ダロール火山湖


地殻の厚さは平均40km~100kmだが大地溝帯周辺部は16kmと薄くマントルが上昇しやすい

白くなっている先端部から硫黄を含む温水が出ている     硫黄は120℃位でオレンジ色に

180℃位で赤色に 250℃位で黒色に変化するという

 ・

宇宙のどこかの異星にいるような感覚になる  それにしても硫黄臭がきつい

緑は塩水に発生する藻の色

丸テーブルみたいに残るのはかっての噴出口


溶岩台地の南にはダナキル砂漠が広がっている

 塩の奇岩群  ロトの岩 ? リトルモニュメントヴァレー ?

岩陰でランチタイム      

塩の山でも登れば  結構な高さです


ダロール火山の南数キロには硫黄泉が多くある

硫黄や鉄化合物を含んだ水が湧き出す


直径約40mの大きな硫黄泉

海抜-124mのアサレ湖     ウユニに似てますね

かって紅海はダナキル砂漠まで繋がっていた


アフメド・エラのアファール族の集落

追っかけてきた近所の子供達


この集落の貴重な水源の井戸  運ぶのはロバ   使わない時はポンプにチェーンがかかる

ここには軍の駐屯地があり ここが唯一の娯楽の場で 地元の人も テレビを見たり お茶を

飲んだりできる                        アフメド・エラ

日も暮れるころに アサレ湖の採掘現場から到着したキャラヴァン   重い 塩を背負ったラクダの蹄の音が次第に大きくなって迫ってくる         アフメド・エラ 19/11/2017

今夜は星空を眺めながら (ロバの鳴き声も時折聞こえるが・・・) のテント泊 左の赤い色は通信塔の照明         19/11/2017

早朝 夜明けとともに ベンアレに向かって出発するキャラヴァン            20/11/2017

ロバの隊列も後に続く  ロバの積載はラクダの約半分の100kg

ロバを操るティグレの人


朝日の昇る中を 塩のキャラヴァンは延々とつづく

路線バス(イスズ)がアフメド・エラに停車する そろそろ我々もエルタ・アレに向かい出発!20/11/2017

ジュニパーやアカシアが所々に見える 先行車の「後塵を拝する」と しばらく視界はゼロ !

それにしてもすごいダナキル砂漠の砂煙

窓は絶対に開けられない!


クスラワット村 ここでエルタ・アレの「入山許可」をもらう 昼食もとる                         12:25

異常気象によるこの辺の干ばつに対して緊急の給水計画が人道支援の国際協力のもとで実施されている


ちょっとおしゃまな子 お姉さんかな ? スカーフも共柄でドレッシーですね

砂煙は相変わらずだが 溶岩の岩場を縫うように超低速で走る 正面遠くにエルタ・アレ山

ベースキャンプのエルドーム  標高156m  他のグループも来ている  出発まで準備・休憩・食事  15:10

ラクダに運ばせる荷物を積む

食事を済ませ 夕暮れを待ってエルタ・アレ山頂をめざして出発  !     17:30


まもなく日没 ここから山頂まで写真はありません 「歳」とは言いたくないのですが 自身難行苦行でしたが   みなさんに支えられての登頂でした 感謝!感謝!  

やっと火口の渕がみえる山頂に着く 21:40     少し休んでから(ほとんどダウン状態!)火口の近くへ エルタ・アレとはアファール語で「煙の山」を意味し 地獄の入口と恐れられてきた    エルタ・アレは粘性の低い溶岩によって形成された盾状火山 (アスピーテ : 極めて緩傾斜の円錐状火山)   標高は613m クレーターの中には北と南に2つ火口があり 南側は噴煙のみ   2017年の大規模な火山活動により新たな火口もできた      今赤く見えているのは「火映」と言い

溶岩の灯りが噴煙に移りこんだものだ                                                      20/11/2017

エルタ・アレ火山の溶岩湖       現在溶岩湖 は世界で 7つ確認されているらしい     20/11/2017

溶岩は1000℃以上


北側の火口

夜明け前の星空と溶岩の明かりが映りこんだ噴煙                                   エルタ・アレ    21/11/2017

エルタ・アレの火口周辺の夜明け                                                                                          21/11/2017

6:35   山頂から日の出を見る                  21/11/2017

気温の上がらないうちに下山開始 下りは何といっても ラクダ !      【geology】

アフリカ大陸の東部では約4000万年前頃からの大地溝帯ができ始めた この下では地核から地殻に向かって「ホットプルーム」と言う約3000℃のマントル(個体)の上昇流があり このエネルギーが地殻を引き裂いて溶岩流(液体)を発生させ 多くの「ホットスポット」と 呼ばれる地表の火山帯や熱水帯をこしらえた 約400万年前頃にはその一つのこの地溝帯はアフリカの南部にまで達したと言われ 南北約7000kmのグレートリフトヴァレーが形成された

中腹の溶岩台地からの眺め

アファール族の村を訪問 同行の警護の人が子供達を並ばせて撮らしてくれた   21/11/2017

ソドムアップルの木の柵で囲われた「アリ」と呼ばれる半球状の住居は  木の枝の骨組みを  ヤシで編んだゴザで覆っている

自家製生活用具の説明


観光客が珍しく 興味津津で中を覗き込む子供達   

ソドムアップル

旧約聖書にでてくる神(ヤハウェ)によって滅ぼされた 背徳の街ソドムと、禁断の木の実とされるアップルから この有毒の果実を実らせる植物につけられた名前   なかなかのネーミングと思います

砂漠のあちこちに群がって生えている

砂塵に耐える ダチョウのつがい

砂漠の木陰にいた ガゼル


やっと舗装道路に出た  人も車も生き返る キャンピングスタッフとはこのアフデラの町でお別れだ

アフデラ湖で浮遊体験 「新聞を読んでいるつもり」死海みたいに湖底に塩の結晶はないが 浮力は少し劣る 魚もいるみたいだ     標高マイナス80m

ここの製塩法は アフデラ湖の塩水をパイプで引き込み天日乾燥をする これを繰り返して濃度をあげていく  

アサレ湖よりは近代的製塩法ですが 味はいかに?


今夜はメケレのホテル泊    シャワーに快適なベッドが待っている   もう少しだ!  21/11/2017

アブレハ・アツベハ教会  門の上にはエチオピアン正教の十字架     22/11/2017

岩窟教会のある山からの眺め サボテンもあって どこかアリゾナ風です ?


アブレハ・アツベハ教会のファサード    4Cの創建 岩山を削り取ってこしらえた岩窟教会 入口の白っぽいアーチ部分は後の増築 内部には創建当時のフレスコ画がすばらしい状態で残る 

ティグレには約100の岩窟寺院が残る          メックエル  ティグレ州       22/11/2017

    左の4つある太陽車輪の文様は「エペソ」と呼ばれるもので  本来小アジアのアルテミス神殿 (世界七不思議建築の一つで 月の女神を祀った) のあった ギリシャ人の古代都市「エフェソス」に由来するものです そこは聖母マリアと使途ヨハネが余生を送ったところと言われ 「イクトゥス」の魚のマークとともに初期キリスト教のシンボルとしてエチオピア正教でも使われた 

アクスム王国は325年頃エザナ王の時代にキリスト教が伝わる この教会はエザナ王とその兄弟サイザナの名を冠した教会 画はその王兄弟

 【歴史】 エチオピアはキリスト教を350年 国教化

因みに  アルメニアは301年 国教化

ローマ帝国テオドシウス は380年国教宣言

392年他宗教の禁止 451年カルケドン公会議において単性論が異端とされ 以来エチオピア正教も非カルケドン派とされる

トランサム中央3人の内 左の人は聖人フルメンティウス   ギリシャ人のフルメンティウスは幼くしてアクスム皇帝(オウサナス王:エザナ王の父?)に奴隷として売られ  アビシニアに移り住み  解放後信任を得て子弟の教師となる  アレキサンドリアで聖アタナシウスに会い 叙聖されてアビシニアに戻り エザナ王を洗礼 エチオピア人にキリスト教の伝道を行い  多くの聖堂を建てた 新約聖書を現地語訳したとされ「我らの父」と呼ばれた


この扉は年代物のフィッグの木でできる 

ここから中はもとの岩窟部分


これはサロメが踊りのご褒美に  母ヘロデイヤの入れ知恵で   ヘロデ王に希望して  預言者ヨハネの首を斬らせた よく知られた場面   (右図  中央上  部分拡大)

 10Cのサグウェ朝のクディト女王や  16Cのイスラムの焼き討ちにあいながらも よく残されたフレスコ画 (正確にはセッコ法?)


家族でテフの脱穀風景  「見失うほど小さい」ものも集めれば「山」となります

後ろには脱穀を待つテフの束が  山積み

風景に溶け込んだ 通りかかった 女の子


ウクロ・キルコス教会 4Cの創建 エチオピア最古の教会  ラリベラの岩窟教会のモデルになったらしい

アクスム様式というが ニッチになっている窓なのでしょうか?       メックウェル    ティグレ州  22/11/2017

状態はよくないが 素朴な描写です

左から フルメンティウス、エザナとサイザナの王の肖像


教会に自由に出入りしていた ジョウビタキ

山上のウクロ・ロッジレストランからの眺め



ギャラリーを併営している おしゃれなレストラン  さすが アジスアベバ

ラリベラガモチーフ


アジスアベバ  1886年メネリク2世により建設される エントット山(標高3000m) からの眺め  アムハラ語でアジスは「新しい」アベバは「花」を意味するが 空気は埃っぽく遠くは霞んでよく見えない    人口約400万 標高2400m 

聖ギオルギス教会    時の皇帝メネリク2世が1896年のアドワ戦争(対イタリア)勝利を祈念して建立

八角形の外観で内部は3重構造 エチオピア正教の守護聖人ギオルギスに捧げられた

1930年ハイレ・セラシエ皇帝はこの教会で即位 (1974年のクーデターで逮捕され 直後に暗殺される)   

海外からの援助で進む都心部のインフラ整備              アジスアベバ

国立博物館

エチオピア各地の主な遺跡分布図


アファール  原人 ” ルーシー” 

発見当時 ラジオから流れていた ビートルズの曲「Lucy in the sky」が由来だそうです

 

※ 展示物はレプリカです!

「私はルーシーで約320万歳ですが 完全に直立して歩けます エチオピア各地から集められた 世界的にも有名な 私の代々の先祖や子孫たちを見てください」

318万年前ルーシーの身体は湖沼の中に沈んで化石化が進みました この驚くべき過程が  1974年に学者によって発見されるまで ルーシーを破壊から防いだのです    アワシュ川近く  ハダル出土

推定  15~20才  体重30kg  



トモカコーヒーショップ  1953年イタリアよりコーヒー職人を呼び寄せ  焙煎専門店としてオープン これがきっかけで 家庭の儀式的なコーヒーとは別に ショップで気軽飲むスタイルが普及しはじめたそうだ

因みに日本では代々木上原にトモカショップがあるようです

店内にあった コーヒーの歴史のイラスト

「 エチオピアはアラビカ・コーヒー誕生の地です  

コーヒーの実をヤギが食べているのを見て ヤギ飼いも食べてみました それを親方に見せました コーヒーの実を煎じたりもしてみました 炒ったりすると いい香りもしました それをすり潰して お湯で沸かしてみんなにふるまい 飲んだひとからお礼を言われました これが商品となりラクダの背に乗って売られていき また船でアラビア各地に運ばれました 」 【参考】

ヤギ飼いの少年の名は カルディ 場所はコーヒーの語源ともなったカファと言われる

6C~16C   上述通り

16C オスマントルコ帝国のイスタンブール に伝わる

17C 前半 イタリアに伝わる

17C 後半 オスマン帝国のオーストリア侵攻時にウィーン

に伝わる

18C  植民地活動の活発化に伴い

  ブラジルでコーヒーの栽培が始まる

アラビカ種は酸味が強く フローラルな香りがする

1000~2000mの熱帯高地に育つ 病気に弱い 

 


店内は狭いが アットホームな雰囲気

スタッフの対応もあかるい


オリンピック マラソンを2連覇(1960・1964年)した エチオピアの英雄 ビキラ・アベベのお墓 市の管理する大きな墓地にあるが 手入れは行き届かず ローマ大会では裸足のアベベで世界的に有名になりましたが  エチヒオピアは1937年~1941年にイタリアに侵略・占領された歴史があるため 外ならぬイタリア・ ローマの凱旋門を 1位で駆け抜けたことは エチオピア国民にとって 単なる勝利以上の深い意味があったことを-----ここに来て初めて知りました アジスアベバ 23/11/2017

レストラン 2000  Habesha にて 民族音楽と舞踏


                                         アジスアベバ   23/11/2017

テフを使った北部の伝統料理「インジェラ」 肉や煮込んだ野菜といっしょに食べる


久しぶりに見る 快晴の富士    JALのマークが日の丸をイメージして 帰ってきたとつくづく思う

夕べ成田に着いてから スシ  ソバ オムスビ・・・  飛行機は上昇するが 私の腹は下降 !    25/11/2017