一対の鹿の像が立つ マンドラキ港の出入り口 BC3C リンドスのカレス(サンマルコ寺院の馬像を建造したリュシッポスの弟子)により ディアドコイ戦争の勝利を記念して 銅製の「ヘリオス(太陽神)の巨象」(世界七不思議の一つ)が建てられていたとされる場所 対岸は 聖ニコラス要塞 当時はエジプトとの交易で繁栄を極めた時代でもあった ロードス市 ロードス島 12/10/2016
マリン門
城壁沿いの商業港のボードウォーク
イポトン通り ( 騎士団通り ) かって両側に国別にプロバンス・フランス・イタリア・アラゴン・ドイツと少し離れてオーベルニュとイングランド騎士団の館(住居)があった 坂を登りきると騎士団長の宮殿
騎士団長の宮殿 胸間城壁も備える堅牢な造り 1520年ここに「ロードス島攻防記」のアントニオ・デル・カレットも ときの騎士団長フィリップ・ド・リラダンに着任の挨拶に来たのだ リラダンは1480年メフメト2世の1回目のオスマン帝国の攻勢を耐えしのいだ経験をもっていた
もとの建物は7Cの終わりに初期ビザンチン帝国の要塞として建てられが 1308年当時キプロスに落ち延びていたヨハネ騎士団が奪い取る ビザンチンビザンチン期と聖ジョン騎士団長(1309~1522)の時代を通してその機能を果たした 14Cの初めには騎士団により 団長の館としてまたロードス騎士団の司令部として使えるように改修 された 南面するファサードの入り口は威厳のある二つの塔に護られている
宮殿の中庭
エヴレオン広場とタツノオトシゴsea horseの噴水
ポート門 gate of the virgine 左にはブーゲンビリアの花がさいている 因みにかってはバラの花が咲き乱れたから ロードスと名がついたようです 門からは聖ニコラス要塞が見える
クルーズ船に挟まれるとまるでビルの谷間
【ギリシャ神話】神話ではクレタのミノス王は (フェニキア王女エウロペとゼウスとの子で ある)ポセイドンから自分への生贄の奉納用にもらった牛を殺さなかったので ポセイドンに罰として王の妻がその牛と交わり 怪物ミノタウロスをうまされた 王はダイダロスに命じ迷宮をこしらえてミノタウロスを閉じ込めた 王はアテナから9年ごとに若い男女7人ずつをミノタウロスの餌食として献上させた・・・ あとはテセウス、アリアドネの話です
神話が教えてくれることは 当時牛を神聖視していたこと、王は人間性と神性を併せ持ったこと(両刃の斧ラブリスが象徴)、クレタは宮殿(両刃の斧の家ラビュリントス)を建設できるほどの富があり、アテネに貢物をさせる程の力もあったということなのでしょうか
王妃の間 想像復元
何の変哲もない港の風景だが わずかに残る左の石垣部分は 「サラミスの英雄」テミスト
クレスが ペルシャに攻められてアテネから市民を疎開させたときの反省から アテネと軍港ピレウス間7.5kmを幹線道路で結び 城壁で囲って一体化させたときの城壁の一部なのです 時はBC478年の着工 一時スパルタの抗議はあったものの BC477年のデロス同盟結成には集団防衛と経済圏の確立の意味でプラスに働いたのではないでしょうか BC404アテネが敗北しペロポネソス戦争が終結したとき この長壁は2kmを残し破壊されたという 詳しくは塩野氏の「ギリシャ人の物語Ⅰ・Ⅱ」をお読みください ピレウス港近く(バス内から撮影)14/10/2016
ゼウス神殿 BC2Cに着工するもAD2Cハドリアヌス帝の時代に完成 アテネ 14/10/2016
青銅器時代にギリシャ本土で最初の文明を築いたミケーネ人が 15Cにはアクロポリスの丘に城壁や宮殿を築いていた
[レトロ] long time ago
アクロポリス神殿海抜156m
右 アテナ・ニケ神殿
当時は朝の開場と夕方の閉場時に 国旗の上げ下ろしのパフォーマンスのために 木靴を履いた民族衣装の兵隊が麓からやってきました いまも続けているのでしょうか
[レトロ] long time ago
イロド・アティコス音楽堂
パルテノン神殿のプロピュライア(神殿入口の門)
パルテノン神殿 ペルシャ戦役で破壊された後 ペリクレスがストラテゴスの施政下 フェィディアス指揮のもとBC438年にドーリア式で完成
ペディメントの中にあったフリーズは大英博物館にエルギン・マーブルと呼ばれて展示されている
1898年テネシー州ナッシュビルの万博で実物大のレプリカが建てられた 因みにアメリカには「アテネ」の地名は20位あり ナッシュビルは「南部のアテネ」と言われている 4/10/2016
エレクティオン
エレクティオンはアテネとポセイドンとギリシャの英雄「エレクトニウス」に捧げられた神殿 BC5C末に完成 高低差のある地盤の上に建てられ 4 区画の構造で複雑になっている
カリュアティド 古代ギリシャ建築で柱としてエンタブラチャを支える女性像 を言い エレクティオンが最も有名 因みに男性像は「アトラント」 と呼ばれる(BC415年頃)
ペルシャ戦役の際敵側のペルシャにくみして 奴隷とされたペロポネソスの一国「カリュアイ」の少女たちに由来 これはレプリカです
BC8C ケクロプス王(初代王エレクテウスの子)がアテナの守護神を決めるにあたり ポセイドンとアテナが競う ポセイドンはトライデントで岩を突きエレクテウスの海をつくり アテナは槍で地面を突き実を付けたオリーブの木をだした 王はアテナ神を選んだということで オリーブの木が植わっている
エレクトニウスはアテネ3代目の王 ヘパイストスの精液がアテナの太腿にかかり アテナが毛皮で拭いて捨てたところ ガイアが受け止めてエレクトニウスが生まれたという伝説がのこる
アテナに愛されアテネの国を治めていた
王は足が悪かったが 戦車を乗り回し 戦いのときは一番に敵陣に切込み大活躍をした
このため「御者座」はエレクトニウスが馬でひいた戦車を操る姿だと言われる
アテナ 14/10/2016
アタロスの柱廊(古代アゴラ博物館) 長さ115m
古代ギリシャ美術は 先史時代(BC31~BC12C)・ アルカイック期(BC800~BC500)・ 古典期(BC500~BC330)・ヘレニズム期(BC330~AD31)に分けられる
クーロス像 アルカイック期
クーロス(青年)像には共通して「アルカイック・スマイル」と言われるどくとくの微笑が表現されている 国立考古学博物館