アトレウスの宝庫(or アガネムノンの墓) ミケーネ時代(BC1400~BC1200)の様式の墳墓 傾斜した入口通路(ドローモス) アプローチはエジプト新王国時代の墳墓ににている BC1250年頃の建設 ミケーネ
ミケーネ遺跡 シュリーマンによって(1873年のトロイの「プリアモスの黄金」に続き) アルゴス平野がひろがる丘のミケーネで 1876年「黄金のマスク」で有名な遺跡が発見された ミケーネ(ティリンス含む)がホメロスの叙事詩「イリアス」や「オデュッセイア」の神話の世界と深く結びつくことが考古学的にも証明された
アガネムノンのマスクは1876年に上の写真の円形墓地Aの5号墓にあった死体の顔の上からから発見された
シュリーマンはこれを伝説上のアガネムノンのものと信じたのでこの名がつくが 実際はこれより古くBC16Cのものとされている
(アテネ考古学美術館にて撮影)
北門(内側より外側に撮る) 北門はBC1250年頃の第二期城壁工事のときに造られる 4つのアーモンド石の一枚岩で門が組まれている 門は二重の木製の扉で閉じられ横棒の環貫が使われた まぐさ石の上の三角形のレリーフの代わりに2枚の平板の石が端に縦に置かれ重量を2つの柱に分散した 中に入るとメガロンへと続く小さな内庭がある この城塞の2つの門に払われた特別な配慮は石の加工技術の高い専門性を証明している ミケーネ 7/10/2016
ヘラ神殿跡 BC7C末建造 ギリシャに残る神殿で最古 ここでオリンピックの聖火の採火が行われる
赤子のデュオニュソスをあやすヘルメスの像 (プラクシテレス作 BC340~BC330 ローマ時代摸彫)
1877年発見される ゼウスから使者ヘルメスは 赤子のデュオニュソスをその養育のためにニンフのところへ連れていくことを命じられる 途中で外套を木の幹にかけて もたれかかって休んでいるところです
ヘルメスの上げた右腕はたぶん葡萄の束を持っていたでしょう それにデュオニュソスが手をさしだして未来の酒の神を暗示している
彫刻家は神の顔や均整のとれた身体からオリンピアの平安を表現することで この像の美しさを引き出している
表面を高度に磨き上げることでプラクシテレスの作品の優雅さと柔和さを増している
高さ:2.13m
ヘラ神殿の地下に置かれていた
オリンピア 考古学博物館
ゼウス神殿西側4番目のフリーズのメトープ ヘラクレスと牡牛の二者の対決は右に逃げる牡牛を配置して画面いっぱいに表現されている
(ヘラクレス12の難行の1つ クレタの牡牛を生捕る場面) 英雄ヘラクレスは右手のこん棒で牡牛をけん制しながら 鼻ずらに結ばれたロープをたぐりよせて 牡牛をならしている メートープの背景は青で牡牛はチェスナットレッドの彩色であったと思われる オリンピア 考古学博物館
ニケの像
ギリシャ神話の勝利の女神で有名でアテナ神の髄神です 有翼像で表現されますがこれは欠損していましす オリンピア考古学博物館
ガニメデスをさらうゼウス像
トロイの美少年ガニメデスはゼウスにさらわれオリンポスの神々の宴会で神酒(ネクタル)のお酌をさせられる みずがめ座で水がめを持っているのがガニメデス
Rion Antirion Bridge 実に形式的なネーミングですが斜張の線が美しい パトライコス湾を南岸のリオンから北岸のアンティリオン側渡る 北岸を 東に曲がればナウパクトゥス ( レパント )がもうすぐ8/10/2016
(参考)レパントの海戦
1538年にプレヴェザの海戦(オスマン帝国勝利)・1565年にマルタ島のグレートシーズ(聖ヨハネ騎士団勝利)があり
1571年のレパント沖海戦ではフェリペ2世のスペインはヴェネチア・ローマ教皇の連合艦隊とともにオスマン帝国海軍を1日で破った 約3万のオスマン帝国兵士は捕虜となり ガレー 船のこぎ手であったキリスト教徒の奴隷約1万人が解放された(ガレー船が主力の最後の海戦であり 艦砲が使われた最初の海戦)
こんな狭いパトライコス湾口の海域でどんな海戦が繰り広げられたのでしょうか パオロ・ヴェロネーゼの画がヴェネチアのアカデミア美術館にあるみたいです 因みにスペインの作家セルヴァンテスはこの戦いで左手を失い 以後4年間転戦しチュニジアで捕虜になり 解放されてのち「ドン・キホーテ」を出版
古代デルフィーの想像図 中央にアポロン神殿 この地では「アポロンの神託」が行われ 遠くは
イスパニアや黒海沿岸地方からも巡礼者が訪れ 奉納品や祈祷料で潤い BC6C頃全盛期をむかえた 神託はAD381年にビザンチン帝国テオドシウス帝によりデルフィーが閉鎖されるまで続いた
アポロン神殿跡 全景 後方は フィドリアースの岩山
アテネ人の宝庫 アテネがBC490年マラトンの戦いで勝利したのを感謝してアポロン神に捧げた
アポロン神殿跡 と パルナッソス山
デルフィー
古代劇場 約5000人が収容できピューティア祭や音楽のコンテストが開催された
シフノスの宝庫 歴史家 ヘロドトスに「超豪華」と言わしめた数あるなかの宝庫 BC6C中頃
ペディメント(三角形の上部) は東面のみが残る ヘラクレスがイピトス殺しの償いをしていないことで ピティア(巫女)に神託を拒まれて激怒し 予言に使う鼎(tripod)をひったくり アポロンがそれをとりかえそうと争い ゼウスがその仲裁に入っている場面
(下部)のフリーズはトロイ戦争の場面が描かれている 左端からトロイ側についた神々で 盾を持つアレス、アフロディーテ、アルテミス、アポロンと並ぶ 隣中央のゼウスから右へ ギリシャ側についた神々でポセイドン(欠落)、アテナ(ヘビを持っている)、ヘラ、デメテルと並び ここまでが神々の集会の様子 ここから右へは戦いの場面 メデゥーサの顔の描かれた盾を持っているアキレウスが印象的
(下)シフノスの宝庫の北面のフリーズのテーマはティタノマキアでティタン神族とオリンポス神族の戦いです 野蛮と無秩序に対しての文明と秩序の勝利を象徴しています
中期ビザンチン建築 聖堂外壁は石材の水平・垂直方向をレンガで縁取るクロワゾネ積みの技法が用いられている 軒蛇腹の水平方向には犬歯形のデンティルがほどこされている これらはバルカン半島南部の教会堂に多くみられ アッバース朝イスラムの建築様式の影響 8/10/2016
メテオラは「空中につり上げられた」という意味 9C頃から修行者が住み始め 14Cにはセルビア人の侵攻で避難修行者がふえ またアトス山から聖アタナシウスが移住し メガロ・メテオロン修道院を建てたのを期に 修道院が増え始め 最盛期には24にも達した 現在は6つの修道院が使われるのみ
道路案内に右下「テルモピュライ」の表示 テッサリアからアッティカに抜ける幹線道で 第2回ペルシャ戦役で レオニダス将軍率いるスパルタ軍「スリーハンヅレッド」が アケメネス朝クセルクセス王のペルシャ軍を迎え撃ったところです
奮闘むなしく大軍の前に全員討ち死にをしましたが 敵の進軍を食い止めるための英雄的行為は今も称賛されている バスは止まらなかったが 史跡にはレオニダスの像が立つ
カト・ミリの丘 6つの風車のある海辺の風景 (一つ屋根がない?) ミコノス島 10/10/2016
一人見えてないのが残念 !
[レトロ]
「ヌーディストパラダイス」と聞いても今は何の話題性もないでしょうね
当時はヨーロッパ中から集まってたみたいです
丸裸でビーチヴァレーをしている人もいました
ここに入るには自身もヌーディストにならなければいけないので大変な「勇気と決意」がいりました long time ago ミコノス ギリシャ
ギュヴェルジン島 「鳩の島という意味」 14C ヴェネチア人の築いた城塞が残る
「ただいま・・・海峡を通過中」と船内アナウンスが流れる 左 プシリアモス サモス島(神話ではゼウスの正妻ヘラが生まれ、歴史上ではエピクロス、ピタゴラスの出身地) 最短幅1km 右 小島と トルコ側
リンドスのアクロポリス リンドスの町はBC10C頃ドーリア人により建設され アクロポリスは要塞として 古代ギリシャの時代からローマ帝国、ビザンチン帝国、聖ヨハネ騎士団、オスマン帝国と利用されてきた 14Cにはヨハネ騎士団がオスマン帝国に対峙し ロードスと同様城壁を築き要塞化をすすめた
リンドス 12/10/2016
コンスタンチノープル陥落後の1474年オルシーニ( ヨハネ騎士団長)の命でビザンチン時代の城壁の上に塁壁が建てられ ロードスで一番堅固な城塞となり 周辺の村々からの避難所として機能を備えた 入口上部にはこの時できたと思われるマチコレーション(突き落とし狭間) が見える
「案内板ヨリ抜粋」 このレリーフが ガーレー船の船体に刻まれた文から ロードスで名の知れたティモカリスの息子ピトクリトス の作であることがわかる BC190年ロードス人がSideの海戦の勝利を記念して サモトラケ島のカベイロイ神殿に奉納したニケの像が 現在ルーブル美術館にあるニケの像と同じものなら それもまたピトクリスの作である可能性があると言う学者もいる
このガレー船はおそらくロードスで造られそ のスピードと操縦性はすぐれていた 乗組員は144人でこぎ手は2列の長列と中央部の短列に配置された
このレリーフは本 来ロードスが海戦で勝利したときの 英雄ミキオンの息子アゲサンドンドロスのブロンズ像のための台座として作られた 右船尾の筋(アフラストン)は細かく表現され 赤の顔料の痕も残っている 船長席は鳥の翼のような形で豪華に飾り立てられている ロードス人の船に対しての美的な表現は当時の海事の伝統と軍船の能力に密接につながっている
石を切り出してこしらえた半円のエクセドラは 籠のようにみせたアルコーブに置く像の基礎としても使われ また聖地に巡礼にきた人々のしばしの休憩のためのベンチとしても供された
東西88mの列柱廊 (ストア) 32の大階段があり プロピュライア(門のある建物)へと導く
ギリシャ (後編)へ つづく ・・・・・・・・・・